雪原の大賢者 ーアデン戦国記異聞録ー 

      1-4 

 

 今すぐにでも飛び出して行きそうなカスパーをセマが押さえ込み、現状出来ることの確認をした後、行動に移すことにした。

 メルキオールとセマは抱えている魔法研究に一区切りつけなければならなかったし、半年の間行方不明だったオリムは『タイタン』代表のタラスはじめ、あちこちに言い訳と報告をしなくてはならない。どちらも数日は要するであろう。

 自由に動けそうなのはバルタザールとカスパーの二人だが、「魔なる聖典」探索と言っても、何処を目指せばいいのかの見当もついてないのが現状である。情報量が足りないのだ。結局カスパーは日記の出処を突き止めるべく再び古書店の閑古鳥へと赴く事にした。バルタザールは日記に何か目的地などの手掛かりがないか、記された内容を細かく調べる事になった。

 だが、それぞれの胸の内は未知なる発見に向けて、高鳴りを感じていた。

 さもそれらしく作られた宝の地図や古文書の類は、腐るほど目にしてきた。興味を煽り、人の探究心を擽る内容で、素人目にも胡散臭いものばかりである。だからこそ、逆に魔法や権力抗争などに縁遠い、物知らぬ若き召使の日常を綴った日記に突如現れた「魔なる聖典」の文字は、信頼に値する可能性が高いと判断されたのだ。

 とはいえ、六十年前のものである。

 娘が仕えていた貴族といっても、特定するのは容易ではない。何代にも渡り高貴な位にあるものから召使を雇う財産さえ持たない下位のものまで、この首都アデンでさえ把握しきれるものではない。しかも、名乗るだけでいいなら誰しもが貴族足りえるのだ。名ばかりの貴族や、没落し忘却されたものまで。それがアデン王国全土にまで範囲が広がるのだ。闇雲に当たって砕けろ、では人生を三度繰り返しても見つかるものではないだろう。

 バルタザールが引き受けた作業が、一番重要であった。

 日記の持ち主は、非常に真面目な性格であったらしい。教育はそれなりのものを受けていたようで、文字はとても読みやすく、美しい。

 物心ついた頃から書き始め、この日記で五冊目になる、というところから最初の文章は始まっていた。年齢は十五になったらしい。それなりに裕福な商家の娘であったようだが、父が商いの旅の途中で怪物に襲われて亡くなり、兄が商売を引き継いだ。だが、兄は父ほどの商才がなかったらしく、維持する事すら難しかったらしい。

 亡くなった父の友人に頼んで召使の職を探し始めたのは、そんな家庭の事情を考慮した彼女自身の考えからだったようだ。

 「なんだか、気が引けるなぁ」

 日記の頁を丁寧に読みながら、独り言を口にした。

 手にしているのは、見ず知らずの誰かが書いた日記なのである。六十年の月日が経過しているとはいえ、他人の日記を読むという行為そのものが奇妙な罪悪感を感じさせるのだ。人間としてしごく当然の感情である。

 だが、それでもこの日記を読まなければならなかった。「魔なる聖典」へと繋がる手掛かりを何でもいいから見つけ出さなければならないのだ。その使命感をもって抱え込んだ罪悪感を緩和させながら、日記を読み続けていく。

 必要そうな部分は別紙に書き取り、情報を整理していく地道な作業であるが、不思議な事に魔法の研究をするよりも集中しているようだった。

 

 アデン図書館の三階の奥にある部屋の扉をノックし、中からの返答も待たずに扉を開ける。大きめの部屋の造りであるが、これといった装飾はされておらず、殺風景という言葉がよく似合う。

 窓の近くに置いてある椅子だけは、座り心地の良さそうな高価な雰囲気を漂わせている。これは前の代表が好んでいた椅子である。

 無言のまま部屋に入ってきたオリムを、タラスが振り向いて迎えた。

 ゆったりとした魔導着はタラスが好んで着るもので、色は概ね青みがかった白色のものだった。これはエルフ族の持つ織物の技術が活かされたもので、特注品でもある。

 「本当に君はハイネの頃から変わらないですね」

 片方の眉を少しだけ上げて答えとするオリムを見て、タラスがため息をひとつ落とす。

 腰まで伸びた美しい金髪が、タラスの動きに伴って左右に揺れた。

 「君は、王様や私に小言を言われるのをわかっていても連絡さえしなかった。それだけの、何かしら価値のある成果を得た。そう思っていいのかな?」

 「それに対しどんな価値を抱くのか、は人それぞれかと思います」

 ふむ、とタラスは顎に右手を当てて、オリムの言葉を聞く。

 半年もの間行方不明であった事自体が、オリムにとってはとても興味を引く何かを発見したという事実そのものを指し示す。

 その上で、彼の今の表情は普段と変わらないものだった。何を考えているのかわからない。だけど、呆けているわけでもない。その眼の奥には目指すべき何かが見えているのだろう。そして、意識が常にそこへ向かっている。彼の眼にそういったものを感じるのは、ひょっとしたらタラスだけなのかもしれない。

 「では、君はこれにどんな価値を感じるんだろうか」

 袖の中から取り出した包みをオリムへと差し出た。

 受け取ったオリムが、タラスと包みを交互に見ている。

 「あの方から君宛に届いたものだ。中身は見ていないよ」

 一瞬、オリムの眼に感情が走った。

 それは憎悪だったかもしれないし、単なる驚きだったかもしれない。

 「・・・ハーディンが・・・私に?」

雪原の大賢者 ーアデン戦国記異聞録ー 

      1-3

 

 自らが記録した場所に瞬時に移動する「空間転移魔法」の成功率は、使い手の熟練度によって大きく差が出る、と言われている。失敗すれば知らない土地に着地する事もあるが、それはまだ良い方だ。下手をすれば地面の下に埋もれ、そのまま死を迎える事もある。アデン王国に点在する大きな領地にある城や街には、王国が管理する固定魔法陣と呼ばれるものが設置されており、その場所に自分の魔力を記憶させることで「空間転移魔法」の成功率を飛躍的に向上させる事が可能となる。もっとも、その魔法陣に魔力を記憶させる事が出来るのは王国から許可を得た者だけであり、王室直属の魔法使いか『タイタン』の中でもごく少数で、魔法陣自体も王国の厳しい管理下に置かれている。

 これ以上セマを怒らせるのは得策ではないな、と思ったオリムが「空間転移魔法」でアデン図書館にある『タイタン』へと帰還したのは、オーレンを出発してから実に七ヶ月の後であった。

 魔法部門の扉を開けた瞬間、セマの顔が間近にあった。手にしたカップから良い香りがしているが、今はその香りを楽しむ時ではないようだ。セマの表情がそう言っている。

 「ただいま」

 「おかえり」

 そして無言。

 凍りついたような空気の中、時間がゆっくりと過ぎていく。

 その空気に耐えられずに間に入ろうとしたメルキオールを、バルタザールが肩に手を置いて止め、首を横に振る。

 セマの怒りに触れることは、この部屋の中で禁止されている爆発魔法の実験を試みるようなものだということを、皆知っている。そして、その怒りに触れても平気な顔をしていられるのがオリムだけだということも。

 「帰りがけに面白いものを発見しちゃってね、つい夢中になってしまったよ。迷惑をかけてしまったようで、申し訳ない」

 にこやかに報告するオリムの目を見て、セマが怒りから呆れた表情になった。それを感じてか、部屋中の皆が安堵する。

 「あなたが行方不明の間、こっちは庇うので大変だったのよ?」

 埋め合わせはきっちりしてもらうから!と言い切ったセマが、まだ暖かい珈琲を口にしながら自分の机へと戻っていく。

 俺達も庇ったんだからな、とバルタザールが小声でオリムに言った後、

 「セマの八つ当たりを食わされるこっちの身にもなってくれよな」

 と、笑いながら小声で言った。

 「わかってるよ」

 そう答えたオリムが自分の机を見ると、見覚えのない書類や手紙が束になって置かれていた。ひとつひとつ、手にしては目を通していく。ほとんどが王室からのオーレンの実験場に関する報告の謁見通知であった。古いもので六ヶ月前から毎月届いていたようだ。

 研究施設内のみであれば、セマ達にも庇いようがある。しかし、王様相手ともなれば、それはかなり難しい話だ。自分が行方不明であったことで、『タイタン』に不利になるような疑いを持たれては困る。魔法という存在そのものが危険視されている面があるからだが、そのくらいの事はオリムでなくとも理解できる。きっと『タイタン』の代表を務めるタラスにも多大な迷惑をかけているはずだ。

 グリフォンと呼ばれる怪物の羽を材料に作成されたペンと、水中に潜むクラブマンの血液に魔力を帯びた小さな魔石の欠片を溶かしこんで作成されたインクを使って、羊皮紙に何やら書き記すと、研究室の警護をしている兵にそれを渡した。後日報告に城に参ります、という内容であった。これで魔力を帯びた紙があれば、相手に直接手紙を送ることも可能になるかもしれない。

 王室への伝言を済ませた事で、セマの怒りはとりあえず収まっただろう。埋め合わせに関しては後で考える事として、王室への召喚状以外の束に取り掛かる。独自の情報網から集まってくるこれらの報告は、重要なものである事も少なくない。が、半年分を消化するとなると、さすがのオリムでも時間がかかりそうだ。

 とりあえず、何から手を付けようかと思案し始めた矢先、カスパーが興奮して声をかけてきた。

 「ねぇ、ちょっとこれ読んでみて!」

 そう言って、手にした古い日記らしきものをオリムに手渡す。古本屋から戻ってきてから、ずっとその日記に夢中であったらしい。

 どれどれ、とメルキオールやバルタザールもオリムのところに集まってきた。セマはまだご機嫌が斜めらしく、素知らぬふりをしている。が、聞き耳だけはたてているようだ。

 先ほどのどさくさに紛れて、いつのまにやらメルキオールの珈琲を手にしたバルタザールが、日記に書かれた繊細な文字に感動していた。

 「特別に魔力などは感じないけど、随分と古いものなのは確かだね」

 「書いたのは女性かな?」

 「その通り」

 メルキオールの疑問にカスパーが答え、さらに付け加える。

 「偶然古本屋で見つけたものだったけど、ここ最近じゃ一番の発見かもしれないよ」

 「そう言い切るには、根拠があるんだろ?」

 オリムの言葉に、カスパーが頷く。

 「ある貴族の屋敷に勤めていた当時十六歳の召使の女性がこの日記を書いたのは、今から約六十年前。その貴族が手にしてた書物に関して書かれてる部分があってさ、その書物が」

 皆を見回して、一呼吸置いてからカスパーが呟くように続けた。

 「あれは魔なる聖典だった、と」

 カップが割れる音が響いた。バルタザールが手にしていたカップを落としたからである。その音に振り返ったセマも驚きを隠せないでいるようだが、驚いた理由は割れた音ではなく、カスパーの告げた日記の内容だ。メルキオールは言葉を失い、オリムだけが日記を手に読み返し始めた。

 アデン大陸には古来より様々な神への信仰が存在し、それぞれが経典や聖典を掲げている。発行された年月によっては、高値で取引されてものもあるのだが、ほとんどが我々を慈悲深く愛し見守っている神の存在は尊ぶべき、といった内容である。

 だがしかし、神が存在するのであれば、その逆の位置に存在するものもいるはず。

 魔族、と呼ばれるこれらの存在は事実目にする事も可能であった。それらは魔物や怪物といった姿でアデン大陸のあらゆる場所に存在し、人々を恐怖に陥れているからである。魔法のようなものを使用してくるものもいるし、中には人の言葉を使うものもいる。そして、それらを統べる神なる存在があり、破壊や死を信仰の軸とする教団があるであろう事は常に噂され続けてきた。そういった教団に守られた古代書の中には、失われた神々の歴史や忘れられた神々の名前、異世界との交信や魔族を召喚する方法を記したものがあるとされている。

 普通の人々からすれば、それは酒場の酒の肴にされるような噂話かもしれない。

 しかし、魔法を行使できる人々にとって神は否定すべき存在ではない。むしろ、いて然るべきだ。神の力を借りる事によって、ただの魔力を魔法と成す事が出来る。だから、その逆位置に存在するとされる魔の神を否定など出来るはずがない。

 実在する、とされながらも、その事実を具体的に示唆する内容の書物などは今までに発見されていない。だからこそ、この世に「魔なる聖典」が実在するのであれば『タイタン』の歴史上、類を見ない大発見になる。

 なるほど、と呟いたオリムが日記を閉じた。

 「興味深いね、実に」

雪原の大賢者 ーアデン戦国記異聞録ー 

      1-2

 

 魔法研究機関が『タイタン』と命名されたのは、アデン図書館に本拠地を置いてからである。現在のアデン国王コーラスがハイネにあった魔法研究機関を首都へと呼び寄せたのだが、国王自身が生粋の戦士で魔法に縁遠かった事で非常に強い興味を示した事がきっかけだと言われている。その一方で、魔法という存在を軽視せずに脅威であるとみなして監視下に置いたのだ、とも囁かれている。これはコーラス王が優秀な戦士であると同時に頭脳明晰であり、国民から「賢王」と呼ばれ、親しまれている事にもよるのであろう。

 もっとも、事実は王室のみが知るところではあるのだがー。

 設立から百年の歴史を持つ『タイタン』は、アデン領土の各地より集められた才能ある人々で構成されているが、所属しているのは何も人間ばかりではない。長寿であり、平和を愛する種族であるエルフ、鉱物の精製に長けたドワーフも参加している。

 主に精霊と契約を交わし、その精霊の力を具現化する「精霊魔法」に長けているエルフ族が参加し始めたのは、実は近年の事であった。『タイタン』の魔法研究が急激に成果を結び始めたのも、これによる影響が大きい。

 ハイネ時代に機関を束ねていたハーディンというエルフを先頭に、何人かのエルフが今も参加している。アデン図書館に移動し『タイタン』となってからは、機関を離れたハーディンに代わり、タラスというエルフがその代表を務めている。見た目にはまだ二十代に思えるが、実際は八十歳を越えている。

 その『タイタン』は、魔法研究の部門錬金術などの錬成部門とに分かれているのだが、錬成部門に所属する人達は主に学者が多い。逆に魔法研究の部門は学問とは程遠い人材が多く在籍している。古文書や古い歴史書の解読等にはそれなりの学が必要に思えるのだが、実際魔力に優れた人達はほぼ無意識にそれを理解し行使可能な為、あまり学歴を重要とはしない風習にあった。

 カスパーやバルタザールもまた、無意識に魔法を使いこなす方である。

 ただ、無意識に認識している分、他者に対してそれを説明したり指導する、といった事には向いてはいない。魔法を使うという点における核心的な面をどのようにして万人に理解されるよう言葉や文章にしていくかが、『タイタン』の恒久的な目標のひとつである。その点ではセマやオリム、メルキオールは優れていると言ってもいいが、それでも他の天才と比較して、という意味である。

 錬金術等を研究する錬成部門もまた、同じく図書館にその居を置いている。『タイタン』と称されるようになった今の世代は、魔法研究部門と同様に百年に一人と呼ばれるような逸材が揃ってきているというが、それは研究成果にも勿論出てきている。怪物の皮を用いた羊皮紙に限られた魔法を封印し、魔力を行使できない人でも一度限りであるが使うことが出来る「空白の魔法紙」は画期的な発明品である。材料の調達や精製の分量配分の確立もまだ不安定要素が多く、まだまだ実用的とは言い難い。それでも、才能ある人にしか使えなかった魔法が万人に使える、となれば歴史的にも驚異的な発明であるのだ。もっとも、開発者であり錬成部門主任であるチャーリーはオーレン地方に長期出張中である。

 オーレン地方、一年中白雪に包まれるこの地方で発掘された巨大な魔力石の研究解析に『タイタン』から少数の天才が派遣されている。迂闊に動かせば内部に蓄えられている膨大な魔力が暴走する危険性があるとされ、かといって放置するわけにもいかない。なんとか現地で有効活用できないか、と研究をした末に出た結論が「魔力石を研究解析する為の魔法実験場を作る」というものであった。錬成部門が軸となる計画であったが、なぜか魔法部門のオリムが興味津々で参加し、挙句施設の設計までやっている。

 その当人であるオリムが首都アデンにある『タイタン』に帰還せずに無断で放浪の旅に出ている事は、実は魔法部門で問題視されているのだがー。

 

 

 真夏の日差しはアデンの大陸全土を照らし続けている。

 グルーディン地方からケント領へと続く街道を歩く旅人が、ふと足を止めて振り返った。思ったように成果は出ているようで、本人の顔は満足気である。

 《ー・・・リム。聞こえる?》

 耳の奥に直接響いた声に聞き覚えがあった。

 《やあ、セマ。元気そうでなによりだね》

 《ーなによりだね、じゃないわよ!どれだけの時間を連絡無しだったと思ってるの?!》

 《どれだけ、って・・・あれ?そんなに時間経ってた?》

 一瞬呆れ顔のセマの顔が浮かんだ。大気に満ちる魔力を伝って会話する念話ーささやきーの向こう側で、きっとセマはその表情をしているだろう。事実、足りないのはため息くらいのものだ。

 《ーとにかく!すぐに戻ってきて!》

 わかった、と伝えかけたオリムの念話を、《ー今すぐよ!今!》と強制的に打ち消したセマの声は、もはや怒鳴り声にも近かった。

 

 

雪原の大賢者 ーアデン戦国記異聞録ー 

      1-1

 

 今年の暑さは例年を遥かに超えるもので、何をするにも滴り落ちる汗との格闘となり、見上げる度に照りつける太陽の輝きは、その強さを増していくばかりであった。

 そんな中、恒例となったケント領主催による大陸武闘大会が大盛況のうちに終了し、本格的な夏という季節を迎えようとしている。

 大陸の大半を占める王国アデンーその首都は国名そのままを使われており、日々多くの国民で賑わっている。貴族の家も多数存在し、毎日のように何処かしらで舞踏会が開催されている優雅な一面が大概の印象ではあるが、光あれば影があるように、都会の闇のような面も、このアデンには存在している。もちろん、首都に限った話ではないのだがー。

 スラム街、と俗称のついた首都アデンの影は、文字通りの貧困街に相当する。貴族達が闊歩する表通りからは想像もしにくいのではあるが、ここでは日々の暮らしが生きるか死ぬか、とまるで街の外の森に住むかのような危険性に満ちている。ぽっかりと空いた地下へ続く階段は首都の下水道へと続いているが、その先には普通に怪物達がうろついているのだ。毎年の行方不明者の三割はこの下水道付近で消息を絶っている事から、住民からは封鎖の申請が幾度となく出されているのだが、衛生上や下水道管理のためには封鎖は出来ない、という見解から願いを聞き入れられる事はなかった。

 スラム街の中でも表通りに近い目抜き通りー露店道ーには屋台が並び、付近の住民が生き延びるために商売をし、飲食を済ませている。生活用品から食料品、不要になった家具や時には武器や装備までも、様々な露店が立ち並ぶ。

 その中でも、特にここでは人気がない店のひとつ、古書店「閑古鳥」から鼻歌混じりで出てきた青年は、瞳を輝かせながら手にした数冊の本を見た。

 その中の一冊は古めかしい表紙で、どうやら誰かの日記であったらしい。店主は誰から買い取ったのかも定かじゃないな、というと、それでも法外な値段を突きつけてきた。そこを言葉巧みに屁理屈を捏ね回し、最後には国家を敵にする覚悟があるのですね、と脅すところまでいって、店主が手を上げて降参した。結果、二束三文の値段まで落ちたその本を手に、青年はアデンの表通りから聖堂の裏を抜けて、城壁の南門の近くにある大きめの建物へと入っていった。

 入り口には「アデン大図書館」と書かれた看板が下げられている。

 地上三階、地下一階の造りであるこの図書室は築二十年を越えているが、度重なる改修工事によって、今も堅牢な造りを保っている。アデン王国内にて発刊された書物のほとんどが集められており、地下と三階の一部以外は一般にも開放されている。持ち出しこそは禁止されているが、国民であれば誰であろうと利用することが出来るのは、現在のアデン王コーラス・サードの后の嘆願によるものであった事は、国中が知っているところである。

 青年が三階にある一番奥の部屋へと続く廊下に着くと、両側から長槍が飛び出して、青年の足を止めた。

 長槍を手にした衛兵が、青年を見下ろして小さく声を上げる。確かにカスパーは少し小柄ではあるが、この衛兵二人が身長が高く、しかも軽装とはいえ武具や防具を装備している為か、比べるとカスパーが子供のようにも見えるのは致し方がないであろう。

 「これは、カスパー様でしたか!失礼いたしました!」

 そう言って姿勢を正し、両脇に立つ衛兵は通路を開けた。

 どうも、と頭を小さく下げて、その廊下を進んだカスパーが、突き当りにある大きな扉の前に立った。

 ー魔法研究機関「タイタン」ー

 国家が設置した魔法という存在を確認、研究する目的で、魔法が使えるエルフや人間が中心となって結成された機関であり、優秀な錬金術士や魔法使い、エルフが多く在籍している。権限もかなりの範囲で許されており、その研究成果は結成から百年の月日を迎えても尚、新たな発見が増え続けている。

 扉を勢いよく開いてカスパーが中に入ると、何やら刺激的な香りが漂っていた。

 「おい、それには手を出すなよ?メルキが仕入れてきたとびっきり貴重な豆を使ったやつだから、勝手に飲むと新しい魔法の実験材料にされちまうぞ」

 ちょうど通りかかったバルタザールが、手にした資料からカスパーへと視線を移して忠告を促した。何故なら、彼自身が先にメルキオールにこっぴどく怒られたからなのだが。

 「教えてくれてありがとう、バルタザール」

 にこやかに答えて、カスパーが自分の研究机へと向かう。

 「掘り出し物でも見つけてきた、て顔してるわね」

 今しがたバルタザールが注意を促した珈琲に手を付けながらセマが問いかけた。

 おい、と言いかけたバルタザールだったが、片手でそれを制し、

 「私はちゃんと許可をもらってるの!」

 と、したり顔でセマが言った。

 本当かよ、とぼやいたバルタザールだったが、彼の見解は正しい。セマはメルキオールの許可などもらってはいない。問題になったら、研究中の題材の手伝いを理由に説き伏せるつもりだったのだ。

 ちらり、と自分より奥の位置にある机を見る。そこにいるはずの人物は半年ほど前から不在のままである。

 「現場を視察するだけだったら、瞬間移動の魔法ですぐなのに・・・」

 「ふだん引き篭もりだから、たまには外を歩くのもいい、てオリムが言ってたから。今頃はどこをふらついてるのやら・・・」

 手にした珈琲を口にして、美味しい、とセマが言った。

 夏を迎えたアデンを、少しだけひんやりとした風が吹き抜けていくのを感じる、そんな午後であった。

雪原の大賢者 ーアデン戦国記異聞録ー 

      序章

 

 その夜の雷雨は、横殴りの風と相まって激しさを増すばかりであった。

 手綱を握る手にも、そろそろ力が入らなくなってきている。雨除けの外套を頭から被っているとはいえ、全身を冷たい雨にさらされながらの帰路は、体力の消耗の想定を遥かに超えていたようだ。

 時間も深夜に差し掛かろうとする中、自らの領地の深き森を愛馬に跨がり駆け抜けていく。迷うことなく真っ直ぐに屋敷へと向かう愛馬も、その足は徐々に軽快さを欠いていく。走る為に生まれてきた生物とはいえ、長距離の全力疾走に加えての雷雨となれば、致し方ないであろう。

 漆黒の闇に支配された森の向こう側に、屋敷の窓の明かりが近づく。くたくたに疲れきった身体とは裏腹に、意識が活性化していくのがわかった。それは、ようやく雷雨から我が家へと逃れることが出来る安心感からくるものではない。

 その理由は、彼にはわかっていた。大事そうに外套の下に抱え込んでいる愛用の肩がけの革鞄ーその中身ーこそが、彼の意識を活性化させている理由そのものだ。

 屋敷の門を抜け、愛馬から転がり落ちるかのように飛び降りる。手綱を手近の柵に縛り付ける時間さえ惜しみ、彼は勢いそのままに屋敷へと帰還した。

 慌てる執事たちを尻目にずぶ濡れの外套を放り投げ、革の鞄を大事そうに両手で抱え込みながら、足早に書庫になっている部屋へと入る。

 大きな音と共に書庫の部屋の扉が閉じられた。

 この夜を境に、屋敷の主であるヒッター子爵の姿は公の場から消える。

 

 

 そしてー、月日は流れた。