雪原の大賢者 ーアデン戦国記異聞録ー 

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 自らが記録した場所に瞬時に移動する「空間転移魔法」の成功率は、使い手の熟練度によって大きく差が出る、と言われている。失敗すれば知らない土地に着地する事もあるが、それはまだ良い方だ。下手をすれば地面の下に埋もれ、そのまま死を迎える事もある。アデン王国に点在する大きな領地にある城や街には、王国が管理する固定魔法陣と呼ばれるものが設置されており、その場所に自分の魔力を記憶させることで「空間転移魔法」の成功率を飛躍的に向上させる事が可能となる。もっとも、その魔法陣に魔力を記憶させる事が出来るのは王国から許可を得た者だけであり、王室直属の魔法使いか『タイタン』の中でもごく少数で、魔法陣自体も王国の厳しい管理下に置かれている。

 これ以上セマを怒らせるのは得策ではないな、と思ったオリムが「空間転移魔法」でアデン図書館にある『タイタン』へと帰還したのは、オーレンを出発してから実に七ヶ月の後であった。

 魔法部門の扉を開けた瞬間、セマの顔が間近にあった。手にしたカップから良い香りがしているが、今はその香りを楽しむ時ではないようだ。セマの表情がそう言っている。

 「ただいま」

 「おかえり」

 そして無言。

 凍りついたような空気の中、時間がゆっくりと過ぎていく。

 その空気に耐えられずに間に入ろうとしたメルキオールを、バルタザールが肩に手を置いて止め、首を横に振る。

 セマの怒りに触れることは、この部屋の中で禁止されている爆発魔法の実験を試みるようなものだということを、皆知っている。そして、その怒りに触れても平気な顔をしていられるのがオリムだけだということも。

 「帰りがけに面白いものを発見しちゃってね、つい夢中になってしまったよ。迷惑をかけてしまったようで、申し訳ない」

 にこやかに報告するオリムの目を見て、セマが怒りから呆れた表情になった。それを感じてか、部屋中の皆が安堵する。

 「あなたが行方不明の間、こっちは庇うので大変だったのよ?」

 埋め合わせはきっちりしてもらうから!と言い切ったセマが、まだ暖かい珈琲を口にしながら自分の机へと戻っていく。

 俺達も庇ったんだからな、とバルタザールが小声でオリムに言った後、

 「セマの八つ当たりを食わされるこっちの身にもなってくれよな」

 と、笑いながら小声で言った。

 「わかってるよ」

 そう答えたオリムが自分の机を見ると、見覚えのない書類や手紙が束になって置かれていた。ひとつひとつ、手にしては目を通していく。ほとんどが王室からのオーレンの実験場に関する報告の謁見通知であった。古いもので六ヶ月前から毎月届いていたようだ。

 研究施設内のみであれば、セマ達にも庇いようがある。しかし、王様相手ともなれば、それはかなり難しい話だ。自分が行方不明であったことで、『タイタン』に不利になるような疑いを持たれては困る。魔法という存在そのものが危険視されている面があるからだが、そのくらいの事はオリムでなくとも理解できる。きっと『タイタン』の代表を務めるタラスにも多大な迷惑をかけているはずだ。

 グリフォンと呼ばれる怪物の羽を材料に作成されたペンと、水中に潜むクラブマンの血液に魔力を帯びた小さな魔石の欠片を溶かしこんで作成されたインクを使って、羊皮紙に何やら書き記すと、研究室の警護をしている兵にそれを渡した。後日報告に城に参ります、という内容であった。これで魔力を帯びた紙があれば、相手に直接手紙を送ることも可能になるかもしれない。

 王室への伝言を済ませた事で、セマの怒りはとりあえず収まっただろう。埋め合わせに関しては後で考える事として、王室への召喚状以外の束に取り掛かる。独自の情報網から集まってくるこれらの報告は、重要なものである事も少なくない。が、半年分を消化するとなると、さすがのオリムでも時間がかかりそうだ。

 とりあえず、何から手を付けようかと思案し始めた矢先、カスパーが興奮して声をかけてきた。

 「ねぇ、ちょっとこれ読んでみて!」

 そう言って、手にした古い日記らしきものをオリムに手渡す。古本屋から戻ってきてから、ずっとその日記に夢中であったらしい。

 どれどれ、とメルキオールやバルタザールもオリムのところに集まってきた。セマはまだご機嫌が斜めらしく、素知らぬふりをしている。が、聞き耳だけはたてているようだ。

 先ほどのどさくさに紛れて、いつのまにやらメルキオールの珈琲を手にしたバルタザールが、日記に書かれた繊細な文字に感動していた。

 「特別に魔力などは感じないけど、随分と古いものなのは確かだね」

 「書いたのは女性かな?」

 「その通り」

 メルキオールの疑問にカスパーが答え、さらに付け加える。

 「偶然古本屋で見つけたものだったけど、ここ最近じゃ一番の発見かもしれないよ」

 「そう言い切るには、根拠があるんだろ?」

 オリムの言葉に、カスパーが頷く。

 「ある貴族の屋敷に勤めていた当時十六歳の召使の女性がこの日記を書いたのは、今から約六十年前。その貴族が手にしてた書物に関して書かれてる部分があってさ、その書物が」

 皆を見回して、一呼吸置いてからカスパーが呟くように続けた。

 「あれは魔なる聖典だった、と」

 カップが割れる音が響いた。バルタザールが手にしていたカップを落としたからである。その音に振り返ったセマも驚きを隠せないでいるようだが、驚いた理由は割れた音ではなく、カスパーの告げた日記の内容だ。メルキオールは言葉を失い、オリムだけが日記を手に読み返し始めた。

 アデン大陸には古来より様々な神への信仰が存在し、それぞれが経典や聖典を掲げている。発行された年月によっては、高値で取引されてものもあるのだが、ほとんどが我々を慈悲深く愛し見守っている神の存在は尊ぶべき、といった内容である。

 だがしかし、神が存在するのであれば、その逆の位置に存在するものもいるはず。

 魔族、と呼ばれるこれらの存在は事実目にする事も可能であった。それらは魔物や怪物といった姿でアデン大陸のあらゆる場所に存在し、人々を恐怖に陥れているからである。魔法のようなものを使用してくるものもいるし、中には人の言葉を使うものもいる。そして、それらを統べる神なる存在があり、破壊や死を信仰の軸とする教団があるであろう事は常に噂され続けてきた。そういった教団に守られた古代書の中には、失われた神々の歴史や忘れられた神々の名前、異世界との交信や魔族を召喚する方法を記したものがあるとされている。

 普通の人々からすれば、それは酒場の酒の肴にされるような噂話かもしれない。

 しかし、魔法を行使できる人々にとって神は否定すべき存在ではない。むしろ、いて然るべきだ。神の力を借りる事によって、ただの魔力を魔法と成す事が出来る。だから、その逆位置に存在するとされる魔の神を否定など出来るはずがない。

 実在する、とされながらも、その事実を具体的に示唆する内容の書物などは今までに発見されていない。だからこそ、この世に「魔なる聖典」が実在するのであれば『タイタン』の歴史上、類を見ない大発見になる。

 なるほど、と呟いたオリムが日記を閉じた。

 「興味深いね、実に」