雪原の大賢者 ーアデン戦国記異聞録ー 

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 「そんなの覚えてるわけないじゃないか!」

 困り果てたような店主の返答に、右の掌を上に向ける。

 周辺の魔力が凝縮されていき、小さな炎が生まれたのを見ても、閑古鳥の店主の答えは変わらない。

 「僕は火の魔法を得意としてるんだ。この店を焼きつくすのに三十分とかからないほどの巨大な炎も生み出せる。古い本ほどよく燃えるらしいから、きっとあっという間だろうね。今日から無職にしてあげてもいいんだけど、あの日記を誰が持ち込んだのか思い出してくれたのなら、それなりの礼は用意してあるんだけどな」

 無邪気に思える笑顔のカスパーの言葉に、店主は内心震え上がる。この若き青年ならやりかねない。そう思わせるだけの、底知れぬ恐怖を感じたからだ。

 無言のまま、右手を店主の前に差し出す。

 掌に生み出された炎がゆっくりと大きくなっていく。

 「わかった!わかったから、その炎を消してくれ!」

 観念した店主の叫びにも似た声に、炎は瞬時に消えた。

 店主の肩から、一気に力が抜けていくのが見てわかった。

 「すらっとした美形の青年だ。確か何度か貧困街にある地下水道の入り口辺りで見かけたことがある」

 「地下水道付近、か。ありがとう」

 にこやかに答え、カスパーが店主の手に革袋を手渡した。中身はゴールドピースが少し入っていたが、カスパーが聞き出した情報への対価としては十二分な量であった。

 閑古鳥を後にしたカスパーは、その足を地下水道の入り口のある方向へと向けた。

 夕方も過ぎ、酒場が賑やかになる時刻であったが、彼自身はそれをあまり気にしてはいないようであった。

 厚い城壁に囲まれている為に怪物たちの侵入は容易ではない。そういう意味では安全だと言えるだろうが、それ以外に関してまで生命の保証がされるわけではない。貧困街ともなれば通り魔や強盗といった犯罪は当たり前。下手をすれば命を落とす危険も、ごく普通に日常と隣合わせなのだ。勿論、国として何も対処していないわけではない。王国直属の警備部隊、守護隊が警戒巡回しているが、それでも犯罪行為は後を絶たない。

 カスパーは少し小柄で童顔であるため、実際の年齢よりも若く見られる事が多い。だからこそ、夜の貧困街を一人で出歩くのは襲ってくれと言っているようなものなのだ。

 だが、当の本人は構わずに目的地へと歩を進めていく。

 危険性はよく理解した上で、カスパーは路地裏にある小さな酒場へと入った。

 十人もいれば一杯になるであろう狭い店内には、四人ほどの集団がテーブルを囲み、カウンター席には一人の初老の客が座っている。カウンター越しに店主と何やら話した後、カスパーは革袋からゴールドピースをいくつか出して渡すと、礼を言いながら店を出た。

 四人の集団が追いかけるように店を出るのを見た初老の客が、店主に心配そうに話しかけたのだが、店主はひとつため息をついてからこう答えた。

 「世の中にはね、やっちゃいけない事ってのがあるんですよ。どんな世界であっても、ね。あいつらはその辺りの事をどれだけ言っても理解しようとしなかった。その結果がこれから訪れる。それだけの事ですよ」